#081 僕のサブカルチャー 2011.06.07.THU


■目白で発見、釈然としないランチ。『気まぐれパスタ(要予約)』。お前は気まぐれで、コッチは予約かい!

■一月も更新が滞ったと思えば、立て続けにブログを書く。そんなことだってあるのだ。不意打ちだ。不意に打たれるがいい。どうせまたすぐ、姿を消す。びっくりして打った相手を探しても、もう遅い。次いつ現れるのか、誰にも分からない。好き勝手が身上だ。そんなワケで私はブログが大好きである。

■しばらく飽きてしまい止めていたのだが、最近はまた、女性誌を読む熱が高まっている。特に20代前半から中盤くらいの読者に向けられたものが良い。一部で絶大なる人気を誇る小悪魔agehaや、昨年の話題を独占した名コピー「母さん、夏の終わりに豹になる!」のVERYなどは、一時期私も好んで読み、依然ネタとしては大変に面白いのだけれど、ちょっとクドイというか、飛び道具的というのか。それだけにパターナリズムに陥りやすく、まあ有体に言えば飽きが早く、現在はやや食傷気味である。それより最近は、尖りすぎていない、ごくごくマトモなファッション誌やライフスタイル誌などのほうが、いっそ素直に面白いのだ。

■年頃の女性の感性、というのは恐らく、私自身から最も遠いもの、予想外のものであるので、未知に触れる喜びと驚きとをモリモリ与えてくれる。所謂手垢のついた「サブカルチャー」誌などというものより、私にとってはよっぽどサブカルチャーであり、アンダーグラウンドな領域である。そんなワケで最近も友人の女性に何冊か見せてもらって大いに満喫したのであるが、中でもお気に入りは『あと3キロ!差が出るチョイ痩せアドバイス』などと題された質問形式の記事でのやり取りである。

「ストレスが多くて、暴飲暴食気味。痩せられません、どうしたらいいですか?」

という質問に対する回答が、コレだ!

「犬を飼いましょう」

なんだそれは。「犬を飼えば癒され効果でストレスもなくなり、痩せられます」だと。いいのか、そんな理由で犬飼っちまって。意外と長生きするぞ。15年だ。あと3キロのために犬を一匹処方かよ。「ちょっと痩せるためのアドバイス」で犬を。ドッグを。このテキトーさ、タダゴトではない。いやもう、笑った笑った。息もできないほどだ。

■テキトーな受け答えは面白い。しかし、これを芝居でやるのは結構難しいのだ。稽古をする。テキトーに見えるように、一生懸命練習をする。すると間とかテンポみたいなものは一応出来上がるのだけど、何か待ち構えたテキトーさ、とでもいうようなモノになってしまい、あまり面白くはない。稽古した通りの、キッチリ真面目なテキトーさでしかない。テキトーなセリフをテキトーに言うことが出来る役者は貴重である。仮に他の部分ではまるで役に立たない大根だったとしても、やっぱりソレは貴重なのだ。そういう人がいたら、いの一番に飛んでいき、スカウトする。あらゆるセリフに対して、奴はこう受け答えるのだ。「犬を飼いましょう。それで解決です」。

■そう言えば、先月末は富山に行ってきたのだった。氷見市の藤子不二雄A美術館には、御大のこんな有難いお言葉が飾られていた。『明日出来ることを今日しない』。

小野寺邦彦

#080 不器用 2011.06.05.SUN


■近所にある深夜営業のスーパーの一角に、近ごろ真夜中のスイーツという破滅的なコーナーが設けられており、連日、主に終電帰りのOLで静かなる大混雑となっている。香水やアルコールその他でムセ返る中、皆、異様に殺気立ち且つ気配を殺しながら虚ろな眼差しで黙々とスイーツを選んでいる。この雰囲気に強烈な既視感を覚え、何だったろうかと熟考したところ、そうだレンタルビデオのAVコーナーだった。

■『えっと、えっとね、何だっけホラ、おもち入ってるうどん!おもち!え?力?そう……力もち!力もち食べたい!!』 ・・・言いたいことは分かる。力いっぱい分かるのだ。

■偉人伝や伝記、あるいはドキュメンタリーなどで、取り上げる人物の人となりを伝える際の常套句として『不器用な人であった(ある)』という表現をよく使う。だが『器用な人であった』とは絶対に言わないのである。この場合の「不器用」とは褒め言葉であり、計算高くない、欲の無い、小賢しくない、高潔あるいは無垢な人格というようなニュアンスを含んでいる。『器用な人』と言うと、目端が利いて立ち回りが上手いとか、あるいは小さくまとまっていて何でもソツなくこなすが他を圧倒するような突出した才能はない、といったような、いわゆる「小物」っぽいイメージがしてしまうものである。しかしこれもまた、常套句による欺瞞、錯覚であろう。実際には相当器用にいろいろなことをこなしてしまう才人であっても、「でも女には不器用だった」「でもお金には不器用だった」「家庭に関しては不器用な人だった」などなど、意地でも不器用一丁追加されてしまっているケースばかりである。非凡な才能や、それによって成された功績に対して「でも、完璧ではないよ」「親しみやすい一面もあるんだよ」と、人格面で、普通の人アピールを追加してくる。「不器用」はそのための最もイージーなスパイスというわけだ。

■昨今蔓延するこの「親しみやすさ」という概念は、しかしいったい何なのだ。物語には共感ばかりが求められ、人物(キャラクター)には「親しみやすさ」が必須項目として付いてくる。全ては観客がスムーズに感情移入できるための装置として。・・・しかし、だ。感情移入とは、何も共感ばかりから引き起こされるものでもあるまい。全く想像も同調も出来ない異次元の出来事に、眩暈がするような興奮でもって引き込まれるという経験がないものだろうか。あらゆることを「器用に」こなし、一切の傷はなく、トラウマも心の闇もなく、それでいて魅力のある人物、例えばそんなキャラクターが中心にデンと居座るような物語を、作家は創造することが出来ないか?「すっごい分かった」「理解できた」、それが「面白かった」の意味で使われる現状である。自分が何故感動しているのかも理解できないけれど、でも確かに感動している。そんな人間を、目の当たりにしたいものである。まさに今、感動している人間を目の前で見ることが出来る。だから芝居は、演じる側にとっても、感動的なのである。・・・と、書いている今この瞬間も、有線放送から聞こえきた歌の歌手はこんな風に紹介されていた。曰く、『圧倒的な共感を呼ぶ歌詞が大人気』。別にそれ自体には、まったく文句はないのだけれど。

■すっかり小言ジジイと化している。

■そんな自分はどうなのかと言えば、次回公演へ向けて少しずつ台本を進めている。フと気を抜くとすぐに自分に取って自然な方向、容易な方向へと話を進めてしまい、あわてて消したりしている。なるべく意識的に、自分の発想の一番遠いところ、思いつかないところ、この先どうなるのか全く見当もつかない方向へ。死角、死角へと回りこむように話を繋いでゆく。私はプロットなどは立てて書かない。プロットというのは、物語ではないからだ。あらゆるプロットは、プロットそのものの段階では例外なく凡庸なモノである。プロットが立てば物語が出来た、と思うのならば。それはもう悲惨なモノになる。プロットとは、確かに物語の骨ではあるが、観客は骨を観に来るワケではないのだ。骨の上に載った肉を観に来るのである。(この前観に行った演劇部の公演で脚本を書いた君、肝に銘じておくように。なんてな)。さて今、私はその肉が乗る骨の部分を、プロットではない、別の要素に置き換えて書いている。ソレが何かは企業秘密ですが。まあ、気分の問題ではあるのだけれど、これは今のところ、私には合っている方法のようである。楽しく書き進められている。目指すものは見えている。それは勿論、『分からないけど、面白い』。見えてはいても、遥かに遠い。道のりは困難だが、困難もまた、愉し。

■夜半から、唐突に雨の音。日曜の夜、わけもなく急いていた心が、ゆっくりと落ち着いてゆくのを感じる。水滴が雨どいを伝っておちる、その規則的な音の合間に、フと誰かの口笛が聞こえたような気がした。

小野寺邦彦

#079 長距離ランナーの誤読 2011.05.15.SUN


■正午過ぎの東京駅にて。マキシ丈ワンピースの両裾を高々と持ち上げてふくらはぎまで剥き出し、下り列車のホームへと向かう長~~いエスカレーターをズドドドドドドと物凄い勢いで駆け下りてくるアゲ嬢とすれ違う。そうかあれがシンデレラか。

■『私はガラスのハートだよ。耐震強化構造だけど』と、バスに乗り合わせた女子高生が。

■最近何人かの人と話していて、立て続けにオヤ、と思うことがあった。それは例えば映画や小説や演劇などの話をしていて、その人が物語の筋(ストーリー)を明らかに誤解/誤読しているな、と感じる場面でのことだ。それを指摘すると、みな一様にこう言うのだ。『でも私はそのように読んだのだから』と。

■即ち、作品とは世に出た時点で作者から独立して存在しているのであり、例え作者が意図した方向へ「私」の理解が誘導されなかったとしても、それは読者個人の自由である、と。完成された作品の前では、作者であろうと一読者に過ぎず、その意見もまた「私」と同格の「一読者の解釈」に過ぎないというワケだ。即ち全ての意見は同等・並列であり、解釈に「正解」や「間違い」が存在しない以上、「私とあなたの意見は違う」とは言えても「あなたの理解は間違っている」とは断じて言えないハズだ、さらに言えば、仮に「物語を読み取れていない」と言うのであればその責任は、そのように読み取れないハナシを書いた作者にある、と。まあ大体このようなコトである。

■それは一見正論のようにも聞こえるのだけど、しかし果たしてそうか?常に自分の「解釈」でのみ作品を読み解くことに飽き足らなさ、退屈さを感じることはないのか?全ての意見は同等であり、理解に優劣の差はないのか?・・・そうではない。ハッキリと書いてしまうが、物語に「正解」はある。その上で、その「正解」を-すなわち作者の意図そのものを-一読者としてどのように読むかという醍醐味が物語にはあるハズだ。家に帰る道のりが分かっているからこそ寄り道が出来るのであって、やみくもに歩き回って、結果たどり着いたどこかの家が「自分にとっては家なのだ」と言う人はいないだろう。「読む」には技術も経験も知識もシッカリと必要なのだ。そして例え現時点でそれが足りなかったにしても、自分の知らないことがある、そのこと自体にワクワクすることはないのだろうか?やがて力をつけて、かつては「読めなかった」物語が「読めた」ときのゾクゾクとくる快感!決してカマトトではない。物語を「読む」とは須らくそういうものなのだと、思い込んできた。

■少なくとも私はいつだって、自分の知らないもの、分からないもの、見たことがないものを物語に求めている。だから共感のみを求めて「あるある~」と言われるのが目的のような「いい感じの」物語には、一切興味がない。そういうものがあることは全く否定しないし、必要とされていることも理解するけれど、自分の作るものではないと思う。今、目の前に座っている観客が、それまでに観た事のない物語を産み出したいとずっと思っている。それは上手くいくことも、大失敗することもあるだろう。ただ一つだけ自信を持って言えることは、観客を舐めることだけは絶対にしない、それだけだ。・・・自信過剰だと思われますか?どうですか?たぶん、過剰なのでしょう。

■雑誌でだったか、ブログか何かでだったかちょっと記憶が曖昧なのだけれど、以前読んだ枡野浩一さんの文章で、次のような内容のものがあった。

『森達也監督の、オウム真理教を扱ったドキュメンタリー映画「A」で、終盤にかかる音楽が感動的すぎて「誤解」されるんじゃないか?と、何人かの人たちが言っていた。その人たちは、自分は「誤解」しないくせに、他の「誤解するかもしれない」人の心配をしている。まったく余計なお世話』

極めて示唆的なエピソードである。「誤解」の可能性から、何故か自分だけを、初めっから無条件で棚にあげているのである。自分に限っては誤読などするハズがない、と根拠もなく信じている。「俺には分かるけど、果たしてみんなには分かるかねえ」と言うときの、その「分かる」の根拠とは何か?「みんな」とは誰か?常に自明のものとしてしか存在しない世界では、「分からないもの」はどう処理されるのだろう。それは「必要がないもの」として視界から消えてゆくのだろうか。その不必要とされ、捨て去られたものだけで、いつか一つの芝居が作れないものだろうか。そんなことを、考えてしまう。

■日々、わからないことだらけである。例えば先ほど郵便局へ行ってきたのだけど、その前にベンチがあり、二人のオバさんが座って大福を食べていた。すると唐突に一方が言ったものである。

『この大福、いいわ。根性の座ったアンコだ』

・・・えー・・・。「根性の座った」って・・・アンコを形容する際の常套的な表現なのでしょうか・・・。それともこのオバさん独自の表現なのでしょうか。難解。と同時に、何となくドッシリと甘えのない(いや、甘いんですが)風格漂う本格派アンコの趣が言い当てられているようでもあり。日々、勉強である。

■さて、ツイッターの影響なのか何か見えない力が働いているのか定かでないのですが、最近はこのブログに来て下さる人がもりもり増えておりまして有難いことです。約一年ぶりに架空畳のサイトも更新されました。前回公演の記録と、そして次回公演の予告をチラリとですが。夢にまで出てうなされた、大きな劇場での公演です。詳細はこれからですが、えっちらおっちら這うようにして進んではおります。まだまだ、這い回ります。是非、ご期待下さい。

小野寺邦彦

#078 まぼろしの市街戦 2011.05.02.MON


■いまや抜群の知名度を誇るフイギュアスケートだからして、これで充分に通じるのは理解できる。理解できるのだが、試みに一度、フイギュアを忘れてまっさらな心で次のコピーを読んでみて下さい。

女子フリー!今夜!!

宇宙一余計なお世話だこの野郎。

■また間があいてしまった。結局四月は一度もこのブログを更新できなかった。毎日100人単位の人々が訪れては帰ってしまっていたようだ。申し訳ない。そして勿体無いことである。日々、ちょっとずつ訪れる人が減ってゆくのをただ数字の上で眺めているのは哀しいことだ。商売人なら失格だが、私は商売人ではないので仕方がない。この一月、ちょっと多忙で、モノを考える余裕が無かった。そのくせ本は結構読んでいるし、映画も芝居も観ている。ただ、人に会っていない。人に会ってとりとめも無い話をしていなくては、思考が出来ない。やっとここ数日、知人と飲みにいったり、次の芝居のフライヤーの打ち合わせ、と称したダベリ飲みをしたりして快復しつつあるのでまたポツリポツリと書く。アウトプットしながらで無くてはインプットが完了しない、そんな難儀な性分である。

■そんなわけでハナシはやや古くなってしまうのですが。丁度前回のエントリを更新した翌日、次のような発言を、ネットやツイッターで多くみかけたのだった。それは原発関連で、現地付近から出荷される牛乳に放射能が混じっている、という報道を受けての何人かの人々の反応であり、気になったのは、主にこの件での健康被害を否定する発言であった。曰く、『人体に影響が出るレベルにまで達するのは、数値的に約三トンの分量を摂取した場合のこと。一日一杯(200ミリリットル)必ず牛乳を飲んでいても、一万五千日、41年かかる。2日に一杯なら82年、3日に一杯なら123年。直ちに健康に問題が出るレベルとは到底言えない。風評被害であろう』と。ある人物のツイートには『どんだけ長生きするつもりだよwww』というものさえあった。

■さて、知る人は知っているのだが、私は牛乳を一日に最低1リットル以上、必ず飲む人間である。少なくともここ二十年間で週に平均6リットル以下ということは無かったハズだ。長い間、私はこれは取り立てて特別なことではないと思ってきたが、他人に言わせればなかなかクレイジーなことらしい。そんな私にとって3トンという量は、8年ちょっとでクリアしてしまう数字である。充分、健康について考えなくてはならない数字だ。

■何が言いたいのかといえば、これこそが前回のエントリでも触れた『見えない人間が生まれる構図』である、ということだ。「人間、一生で3トンも牛乳飲むかよ」という人間には、まさか一日一リットルの牛乳を飲む人間がいるなどということは想像も出来ないことなのである。しかし、実在する。10年足らずで3トンもの牛乳を消費してしまう人間はここに実在するのだ。実際には存在するにも関わらず、自分の想像力の外にいるヒトをヒトは認識できないのである。仮にこのような人物が実在するのですよ、と言ったところでそれはごく少数の例外的な存在ということで黙殺される。全体から見れば些細なイレギュラーとして排除される。実際、上記のような書き込みをしていた人の何人かに、『私は一日一リットルの牛乳を飲むものですが』とリプライをしてみたところ、ほぼ例外なく黙殺、或いはブロックされてしまった。そういうモノである。このようにして、今も『目に見えないけれど実在する人々の国』は人口増加を続けているというワケだ。

■今回の件ではたまたま私が「他人の目に見えない」人間になってしまったが、多くの場合、私自身も世間に加担して想像力の外に人々を迫害している加担者である、ということも、勿論忘れてはならない。問題は、ヒトはそれを無自覚に、或いは善意からも行うのだ、という点にある。ところで誤解してはならないのだが、これは、だから牛乳飲むなとかそういう形而下のハナシではない。自分自身の偏狭な想像力のみを世界の根拠に置くヒトビトの暴力性についての話である。私は今も毎日、1リットル以上の牛乳を飲み続けている。私ほど牛乳を深く愛している人間もそうはおるまいという自負もある。ただ震災直後にスーパーでいつもどおりの分量、牛乳を購入しようとしたが、フと買占め野朗と思われるかも、とラックに戻した日和見くんであることは否定しない。

■日本の古本屋で89年の「しんげき」を見つけて購入する。めあては川村毅の戯曲「ボディ・ウォーズ」。書籍化されていない戯曲でしばらく探していた。第三エロチカが方向性を大きく変えてゆく直前。最盛期と衰退のはじまりとが同時にある時期。89年という時代を考えて読んだ。期待通り、じっくりと面白いホンだった。しかし80年代の「しんげき」は私にとっては宝の山だ。読みたい戯曲が毎号載っている。気づけば既に半分くらいは手元にある。コレクターではないのだけれど、本になっていない戯曲を読むためには必要なのだ無論、趣味として。しかしこういうもの(未書籍の戯曲)こそデータ化して売ればいいのにな、と思う。80年代の戯曲は、今の芝居の戯曲とは、あらゆる意味で異質である。学ぶべきことも、慎重になるべき部分も、ふんだんにある。

■風の強かった、五月のはじまり。早朝、電車の中で部活の試合にでもいくのであろう中学生の群れからこんなコトバが聞こえてきた。

『こんだけ風強いとぜってえ俺の見てないところでパンチラ起こってて、それが許せんわー!!パンチラだけは取りこぼしたくねえわー!!一生でどんだけのパンチラ損してんのかって考えるわー!!』

大丈夫。世界はお前のモノだよ。

■また、少しずつ更新していきます。もうホンのちょっとしたら、次回公演のことも書けるようになるでしょう。不本意ながらほったらかしのウェブサイトの方も、ぼちぼち更新する予定です。よろしければ、お付き合い下さい。

小野寺邦彦

#077 アルストロメリア・ケイデンスのころ 2011.03.20.SUN


■渋谷駅構内に貼り出されているお店の広告。渋谷の東急に店を構えておきながら『かくれ家』とはどういうことだ。貴様ら本気で隠れるつもりがあるのか。さては遊びだな?

■大震災から一週間。それにしても地面があれほど揺れるものだとは。このままもう二度と地面が静止することはないのではないかとすら思った。確実に死を意識した。間違いなくこれまでの人生で最も長い三分間であった。未知こそは恐怖だ。生活とは詰まるところ慣れである。二十数年も生きてしまって、まだ未知の体験がある。それこそが恐怖である。その恐怖の薄皮一枚上の場所で、今は生活をしている。

■芝居を始めたばかりの頃、酷評ばかりのアンケートの中で一枚、「ジェットコースターを凌ぐ構成力」という最大の賛辞を頂いたものがあった。当時は素直にわーいと喜んだものだが・・・。ジェットコースターの恐怖とはまさしく構成されたものであり、つまり既知のそれである。ありていに言って、つくりものである。であるからこそ、安心してその恐怖に身を預けることが出来るのだ。未知の恐怖とは、それとは全く性質が異なるものである。それはすなわち暴力と呼ばれる力に等しい。芝居の力は、暴力には及ぶべくもない。どれほど緻密に、巧みに構成された物語でも、所詮はつくりものに過ぎないのであり、理不尽な暴力の前には無力である。・・・本当にそうだろうか。よく分からない。書いていて分からなくなる。考えなくてはいけない。分からないことは、考えなくてはいけない。

■地震発生当初から、NHKで繰り返し流された映像。今まさに押し寄せる津波に、家が、車が、畑が飲み込まれてゆく。その津波の向かうすぐ先に、道路があり、車が走っている。車の移動する速度と津波の迫る速度を見て一目瞭然、手遅れである。あと数十秒で道路は飲み込まれるだろう。しかし、次々と車は走ってくるのだ。逃げるために。生き延びるために。これほど恐ろしい映像を見たことはない。今、死を迎える人間がそこにはいる。理不尽な暴力に晒され、逃れる術のない人間の姿。それをカメラは捉えている。しかし誰にも、どうすることも出来ない。私はライブで見ていた。あの映像は、一生忘れることはないように思う。思い出すと、今も、胸が詰まって息苦しい。

■そして、問題はやはり原発だ。いろんな人がいろんなことを言う。

■2008年に上演した「アルストロメリア・ケイデンス」という芝居は原発をモチーフにしたものだった。きっかけは、2007年末頃に、ノンフィクションライターの大泉実成さんの記事をWEB上で読んだことにある(ごく簡単には、こちら→ )。1999年、茨城県東海村で起こったJCO臨界事故で、大泉さんの両親が被爆。そのことから、大泉さんは被害者の会の事務局長を勤めることになり、理不尽な対応を繰り返すJCOと国とを相手に戦いを始める。事故発生当時、大泉さんの母親はJOCから120メートルの場所で仕事をしていて被曝。以下は「茨城からの訴え」からの引用です。

その日の夜中から口内炎ができ、激しい下痢を起こし、そして翌日からも倦怠感で何もやる気が起きないという状態になりました。それからそのあとJCOの近くに行くと筋硬直が起こる。あるいは「JCO」とか「被曝」という言葉を聞くと心臓がどきどきしたりすると。まあJCOの近くに行くことができないということで、典型的なPTSDの症状だということで、自分の母親の症状はJCOの事故との因果関係が明らかだという診断書を医師が書いて、ぼくらはJCOにそれを見せてその医療補償を求めましたが、結局はゼロ回答でした。全く一銭も払おうとしません。
これはなぜかと言いますと、単純に言いますと当時の科学技術庁-まあ国ですね-が
事故から数ヶ月たってから「原子力損害賠償研究会」という研究会を自分たちの御用弁護士、御用学者を使って作りまして、これも非常に長いものですから端的に言いますと「今回の事故では風評被害はある程度は補償しなさい。健康被害は補償するなよ」という内容の報告書が出てます。で、今年の4月にJCOが出してきた回答の中には、この国の報告書からの回答がじつに8ヶ所ありました。もう完全にこの国のお墨付きの上でJCOは開き直ってしまって、医療補償に関しては完全にその被害が出てるのは分かってるんだけれども補償はしないというふうな態度でした。


■つまり、「臨界事故によって健康を害したという人は存在しない。実際に健康を害していたとしてもデータにはないので存在しない。その存在は認めない。存在しない人間に保障を出すことは不可能である」ということです。でも実際に目の前に健康を害した人間がいるではないか、という問題に対しては「それは気のせいか、若しくはもともとそのような健康を害する因子を持っていたのであって、原発との因果関係はない。もし臨界事故が起こっていなくても、その健康被害は発生していたに違いない」と回答する。被害を訴える人間が目の前にいても、その存在を認めない。データではそのような被害は認められないから、と。だがそのデータは自分たちで作成したものであり、おまけに一般公開されていない。

■私はこの問題に個人的にのめり込んでいった。資料を漁り、取り寄せ、東海村と六ヶ所村には取材と称して一泊二日で出かけてさえいる。まあ、両方ともブラブラ歩いただけで特に何もしてないのですけども。東海村で食べた焼肉弁当はおいしかった・・・。そして当時舞台で連作的に扱っていた『「目には見えないけれど存在する人々」の群像劇』というモチーフにこの問題を当てはめて構成していったのである。

■この場合の「目」とはすなわち世間のことで、コミュニティーと言ってもいい。要するに肉体的に実在していたとしても「いないこと」にされてしまう人々のことだ。典型的ないじめの方法でもありますね。シカト。で、私が妄想したのは、その「いないこと」にされた人々だけが集まって新しいコミュニティーを作る。それは文字通り目に見えない「まぼろしの国家」である。だがやがてその「目に見えない国」の人口が、「目に見える国」の人口を上回ってしまう。その流れの中で「目にみえない国」の中でもシカトされ、「いないこと」にされ、迫害を受ける人々が必ず現れる。その人々が集まってまた新しいコミュニティーを作り・・・その中でもまた迫害される人々がいて・・・。

■少女マンガ家『ビッグバン・光』は某少女雑誌に連載を持っているのだが、アンケート結果によると、何とこの連載の読者数はゼロ人である。100万部を発行する雑誌に連載されていながら、読者の誰一人としてこの連載に気づいてすらいないという奇跡ぶり。ではそれはどんな作品なのかというと。

■主人公は、ごく限られた少女しか持つことを許されない瞳、「アーモンドアイ」を持って生まれた少年アルストロメリア。まあ分かり易い両性具有のメタファーである。その存在の神秘性から彼は時代の寵児、文字通りのスターとなってその一挙手一投足には国中の視線が集まっている。彼の秘密を探ろうと連日マスコミが追う。その中で一部のマスコミが未だ年端もゆかぬ美少年「微熱少年」をアルストロメリアの愛人候補として送り込む。狙いは少年同士の熱愛というスキャンダルの自作自演である。アルストロメリアは微熱少年の美しさに魅かれ、条件つきで彼を受け入れる。その条件とは、まだ男か女か判断もつかぬ程にあどけない微熱少年の絹のすねに、うぶ毛が生えてくるまでの関係・・・。

■決して世間には許されぬ背徳感も手伝って、日増しに熱愛はヒートアップし、二人は大量の汗をかく。その汗を流すために銭湯『入浴してぇ(にゅーよーくしてぃ)』に入る二人。だがそのサウナの中で扉が開かなくなり、二人は閉じ込められてしまう。『入浴してぇ』のエネルギー源は「世界一安全なエネルギー」、すなわち原子力であった。愛し合い、燃え上がる二人の熱愛によって、炉心は天井知らずに加熱され、ついに熱暴走から臨界爆発を引き起こす。その瞬間。

■ニューヨークシティ・・・つまり国の主要都市部での臨界事故という「有り得ない」「起こるはずのない」事態に、それまでアルストロメリアを追っていた国中の「目」が、一斉に彼から逸らされる。「起こるはずのない」ことは「起こらない」のだから、その場所にいる人間も「いるはずはない」のだ。もはや彼を「見る」者はいない。「見られる」ことで存在していたアルストロメリアはその実体を失う。消えてゆく存在となりながら、そのとき、初めてアルストロメリアは世界を「見る」。だがその視線に気づく者はもういない。彼の瞳のアーモンドアイは砕け散って、消える。

■ビッグバン光はそこで筆を置く。原稿を受け取りに担当編集者がやってくるが、実は彼はマンガ家ではなく、臨界事故で消えた街の生き残りで、入院患者なのだと告げる。100万部の雑誌も、アンケートも全ては妄想だった。だがその瞬間、読者から一通のファンレターが届くのである。存在しない人間の描いた存在しない物語にファンレターを書く者とは誰か。言うまでもない、それは存在しない読者である。存在しない物語には、存在しない読者がつくのだ。今は見えない世界の住人となった彼に、それが始めて届いたメッセージであった。アルストロメリアの建国宣言で、舞台は唐突に幕。

■これは書くのに大変苦労し、苦しみぬいた作品であった。いつも遅い遅い私の台本だが、これは特に遅れ、完本は劇場入り前日である。役者に計り知れない負担を強いた。反省しても反省しきれぬことである。ごめんなさい。その割に、お客様には珍しく好評の芝居ではあったが、この作品以降、私は書き方を少し変えた。そして今も、変え続けている。

■ところでこの舞台で少年アルストロメリア役を演じた松田紀子の演技は鬼気迫るものだった。彼女は非常にムラのある役者なのだが、このときばかりはそのムラさえ魅力だった。なぜ彼女がこの芝居のこの役に、あそこまで入れ込んだのか、今も正確なところまでは分からない。

■まだいろいろと混乱している。それが文章を見れば分かる。混乱したときに混乱したままの文章を書いている。そこにしかこのブログの価値はない。

■地震のあった翌日、品川から新宿まで歩いて移動した。棚が空っぽのコンビニ、静まり返った駅ビル、臨時休業のファーストフード店。よく晴れてうららかな土曜の昼である。本来であれば人がごった返すそれらの場所が閑散としているのは、不思議な光景だった。代々木の辺りで、ある一軒のコンビニが開いているように見えたので立ち寄ったのだが、店員が奥に引っ込んだタイミングだったからか、無人であった。店内はほぼ全ての棚がカラッポである。諦めて外に出ようとした瞬間、背後から何かの「音」が聞こえる気がした。フと振り返ってみても勿論、誰もいるはずはない。それはきっと錯覚だった。人のいないコンビニの中に入ったのは、初めてのことだった。

■今日20日で地下鉄サリン事件から16年。リビアでは戦争が始まり、僕はこれから銀座に出かけて、旧い友人と会う。時間は等しく流れている。よく晴れた冬の終わりの昼下がり、ほんの僅かに感じる肌寒さ。風邪を引きかけているのかもしれない。

■長いブログになりました。読んでくれて、どうもありがとう。

小野寺邦彦

#076 余計な生活 2011.03.08.TUE


■道行く少年が『おっぱいの大きい女は嘘つきだ!』と叫んでいた。何があった。

■そこで瞬間的に「ウソをつけばつくほどおっぱいが大きくなる女の子のピノキオ」という考えが浮かんだが、それじゃどんどんウソついて何も悪いことがないので、「ウソをつけばつくほどおっぱいが大きくなり、鼻は低くなってゆく女の子のピノキオ」に修正した。相当出来のいい寓意ではないのかコレは。

■テレビをつけていると、パスコ「超熟」という食パンのCMが流れた。小林聡美が出てきてこんなことを言う。
「余計なものは入れない」

■無駄なものの無い生活。シンプルライフ。からだに余分なものの入っていない食事。全てイヤである。ムダだらけでいい。むしろ、そのムダが欲しいと思う。あなたが要らないからと言ってポイポイと捨てたその「余分」、全て私が拾って回る。

■私の書く芝居はムダなものばかりで出来ている。散漫であるとも言われる。話のスジに関係のないセリフの応酬や、何ら有機的に繋がらないエピソードやあきらかに過剰で余計な情報などで芝居のほとんどが出来ている。それでは余分なものばかりで中身がないではないか、とお叱りになるむきもあろうが、その余分も含めた全てが全体であり中身なのだと考えている。大体、一つの創作物の中から、「必要なもの」と「そうでないもの」を選り分けて考える、という考え方自体が良くわからない。「余計なもの」があるから、それに対応する形で相対的に「必要なもの」が生まれるのであって(無論その逆も)、「必要なものだけがある」などというのは、論理矛盾である。余分なものが存在しないのなら、そもそも「必要」という考え方は生まれないのだから。(禅問答のようになってしまいますが)。つまり、いわばそれらは「必要な余分」だ。

■美男美女しか存在しない世界では美男や美女とという考え方は存在しない。それはただの「普通」だ。「必要なものだけがあればいい」というのは、詰まるところイケメン君やモテコちゃんの思想なのである。ひょっとしたら自分自身が、その「必要ない」余分な存在であるのかも、などとは露とも思っていないのだから。おまえが余分なのだ、といつか指差されるのではないかとビクビクして過ごした(今もそうかもしれないが)私などにとっては、恐るべき傲慢な思考に思える。端的に言ってファシズムである。

■ところで、余分と養分は似ている。どちらも余っているに越した事はない。

■ま、こんなことを言ってしまうと、そもそも芝居なんてものが全く必要のないモノである。生命活動を維持していくにはなくても一向に構わない。でも、だからこそ価値があるのだし、やっていて楽しいのだと思う。<やらなくてもいいことをやっている、なぜなら楽しいから。>苦労して芝居なんぞを続ける理由は、ほかにない。必要のないものが必要なのだ。ミギーだって最終話で言っていた。『心に余裕(ヒマ)がある生物。なんとすばらしい!』

■野田秀樹の戯曲「ゼンダ城の虜」、その冒頭のセリフから。

ぼんぼん もし命すべてなりせば。
無法松  え?
ぼんぼん 無法松。
無法松  へい。
ぼんぼん 人はなぜ生きるんだろう。
無法松  ぼんぼんは何も知らねえな。
ぼんぼん なぜだい。
無法松  息をするから生きるんでさあ。
ぼんぼん 人は息をするためにだけ生きているっていうのかい。
無法松  少なくともおばあちゃんの晩年はそうでした。
ぼんぼん 息を止めるために生きている人間ていないかい。
無法松  いねえでしょ。
ぼんぼん 海に潜った真珠とりの海女は。
無法松  でもあの娘達も、いまわの際には息をするためにだけ生きてるんでさ。
ぼんぼん じゃあ最初から真珠とりや結婚なんかあきらめて、息ばかりしていればいいじゃないか。
無法松  それじゃ人は生きられねえんでさ。
ぼんぼん じゃ、人はなぜ生きるんだろう。
無法松  (嬉しそうに)ぼんぼんは何も知らねえな。
ぼんぼん なぜだい。
無法松  息をするから生きるんでさあ。
ぼんぼん ――。


もっとも、最近の野田の劇作はもっぱら「意味」へと向かっていて、私にはあまり楽しめない。

■春の兆しと真冬の降雪とが一日おきにやってくる、妙な季節である。日差しはあるものの風の冷たかった週末の日中、駅へ向かって歩いていると、向こうから女子高校生の集団がやってきた。卒業式だったのだろう。胸に揃いの花をつけ、大声で笑いあっている。大変なはしゃぎ様である。

「JK!終了!!!」
「ぬおおおおおおお」
「ラブとか何もなかったわwww」
「ざけんな!!」
「JKじゃなくなってこれからどうやって生きていけと」
「月末まで有効じゃね」
「やべえちょっとモテてくるわ」


■「女子高生」というコトバがブランディングされて久しい。男子高校生よりも女子高校生の方が、より「高校生」でなくなる切なさは大きいのかもしれない。笑い転げながらゆっくりゆっくりと歩いてくる彼女たちとすれ違いながら、そんなことを思った。

小野寺邦彦

#075 こころにもないことを 2011.02.27.SUN


■昼間、テレビをつけていたらTBSの番組で「昨年大ブレイクを果たした、知る人ぞ知る旬の人」というコトバが出てきてのけぞった。いろいろ矛盾していてたいそう面白いコトバである。脳みそを通していたら到底思い付けないセリフだ。考えた人は天才か、大馬鹿者であろう。俺は大馬鹿者が好きである。紹介された旬の人、私は微塵も知らなかったけど。

■その人とは違うのだけれど、今「大ブレイクを果たした、知る人ぞ知る旬の人」と言えばこれはもう西村健太だろう。大人気だ。面白いものなぁ。むちゃくちゃ面白い。小説も、本人も。どっちかといえば本人の方が面白いけど。よく中上健二に例えられるが(本人も相当意識していると思われるが)、中上の小説だって、特に初期の作品は、笑えるしおかしいのだ。そしてやっぱり中上本人のほうが面白いヒトであった。愛されキャラっていうのか。マスコット的な存在。本人は不本意かもしれないのだけども。西村健太、私が最初に読んだのは大学2年生の頃で『どうで死ぬ身の一踊り』、一番好きなのは『春は青いバスに乗って』である。杉江松恋さんも書いているが、作中、ケンカして警官に取り押さえられた際の貫多のセリフ

「痛い、痛いっ、離して! ぼくは被害者の方なんだっ」

これはもう壁に貼っておきたいくらい素晴らしい。この一行で2時間くらい笑っていた。本を読んでいて、おまけに純文学で、あれほど笑ったことはなかった。最高だ。

■ところで先週終わった五反田団の新作は傑作だった。今まで観た中で個人的にベストの作品であった。千秋楽を待って感想を書こうと思ったが、粗筋とかセリフとか、あんまりマトモに書いても意味が無いように思われたので、印象感想である。ぼんやりとした感じでお読み下さい。

■こころにもないことをいう、というコトバがあるが、これは論理矛盾している。心にないことを喋ることは出来ない。敢えて言うのなら「心にもないことを心で思ってから喋る」ということか。それはつまりウソってことなのだけど、ウソだってこころの中にあるハズだ。ここで使われる「こころ」とは本心、やや飛躍すれば誠意、みたいな意味なのだろうと思う。「こころ」の本質を、「真実」である、と定義している。だけどね。面倒臭いこと言って申し訳ないけど、ウソだって真実なのである。ウソ言おうと思ったのなら、それも「こころ」の真実。ウソのこと思ったのにそれ言うのヤメて本当のこと言ったら、それだってウソになるでしょう(ああ鬱陶しい)。結論として、こころにもないことを喋ることは出来ない、のである。

■ということを踏まえた上で舌の根も乾かないうちに残酷な事実を告げると、実際に「こころにもないこと」を喋る人間は実在する。俳優と呼ばれる人々がそうである。彼らは舞台の上で、ずっと「こころにもないこと」を喋っている。そのコトバは作家、即ち他人の書いたもので要するに全部借り物である。そのセリフをまずは覚えて、暗記して、それから「気持ち」を入れていく。まずハードが先にあり、そこにソフトを入れ込んでゆく、この作業を通常、稽古と呼ぶわけである。何度も何度も繰り返し暗唱して、そのセリフを、まるで自分の考えで喋っているかのように馴染ませてゆく。もっと言えば騙していく。自分を騙す。セルフ・マインドコントロールである。だからこの方法論は正しい意味でまったく宗教に同じである。で、あれば当然予想が付くように、そのコトバは最終的に何か「立派なこと」を示していてくれなくては困る。今自分が無理やりに「自分の考えなんだ」と思い込もうとしている「他人の考え」が何の意味もなく超くっだらない、例えば「おならプープー」とか「カブト虫ってどんな味すんだろ」とか、そんなことを指し示すためだけのモノであったとしたらどうだ。無理だ。普通は無理である。

■で、五反田団『俺のお尻からやさしい音楽』だ。作家が書いた「こころにもない」コトバを、演者が「こころにもないまま」発しているのが良かった。与えられたウソを、ウソのまま喋る、というのはこれは考えてみれば凄い技術であるし、そのような演出のプランを前提とした戯曲の構造も見事である。見事だし、ヒネていて面白いのだ。芝居はみな、ウソっぱちだが現実だってそうなんだから、これは大層「リアルな」芝居であった。大変に構造的で、野心的な作品と受け取った。宣伝の文句には

壊れそうなほど美しい少年大山はプロのバイオリニストを目指しフランス音楽学院に留学する。そこに待っていたのは、世界中から集まった音楽エリートや、厳しい先生たちだった。
という前提のもとかなり何も考えない調子で描かれた感動の学園ロマン。
見終わったあと、心に残るのは愛か、それとも無か。無だ!
確かに私も悪ふざけが過ぎると思う、しかし、人生ときにはそういうことも必要ではないだろうか。どうぞ宜しくお願いします。 前田司郎


と、あるのだが、この文章もそうとう意地が悪い。実はテーマも主張も満載の芝居で、でもそれを「こころにもないまま喋る」という演出プラン一発で、ここまで「無意味」にしてみせた手腕は憎らしいほど鮮やかである。「あまりのくだらなさ」に怒って帰った人もいるとのことだが、私は帰らない。五反田団の行くところ、どこへでも行く。まあ、五反田なんだけど。なんて便利な山手線。重大な決意もリスクなく表明できる。これが「淡路島団」だとか「ケンブリッジ団」だったら一月は悩むところだ。

■まだ若い、20代後半くらいの母親と、その子供が公園などで二人きりで遊んでいる光景を見ると、それは古い過去の風景のように見える。過去として語られるための風景を、あらかじめ、今、作っている。そんな風に思えてしまうのだ。それを「思いでつくり」と呼ぶのだろう。幸福で、哀しい気分に、フとなってしまう。

■またいろいろと普通のことを書いた。普通のことを考える、普通の日々である。

小野寺邦彦

#074 装丁問答 2011.02.21.MON


■ワイワイキャッキャと、どんなに姦しい女子でもプリクラのシャッターが切られる3カウントだけはキメ顔のまま無言で静止する。その瞬間世界が終わったらどうだろう。どうだろうって言われてもな。

■昨日(20日)の朝日新聞に平出隆先生の記事が出ていた。12面の読書欄「挑む 変化のときに」という連載記事である。内容はvia wwanlutswoについてのもので、まあそれは取り敢えずいいのだけれど、本文中にちょっと気になるところがあった。

自身、ブックデザインも手がけ、造本装丁コンクールで賞を受けたこともある。

という箇所である。この「造本装丁コンクール」とは、日本書籍出版協会および日本印刷産業連合会の主催する「造本装丁コンクール展」のことで、平出先生は2004年、『伊良子清白』自装にて経済産業大臣賞を受賞されている。だから勿論間違いではないのだが、この書き方からは、まるで素人が趣味の俳句でコンテストに応募して一席入賞した、というようなニュアンスを感じてしまう。実態はぜんぜん違う。同賞への出典作品はドイツでの「世界で最も美しい本 ライプチヒ国際コンクール」へも出典されるのだ。つまりは国際レベルの話なのであって、決して作家の余技などという範疇の仕事ではない。記事中にあるような「詩人」「多摩美術大学教授」などという肩書きと共に「装丁家」として並び記されるべきものなのである。例えば芸術家で、かつ芥川賞受賞作家でもあるような人(尾辻克彦/赤瀬川源平や唐十郎など)に対して「文学賞にも入賞したことがある」とは絶対に書かれまい。彼らは「作家」或いは「小説家」として扱われるハズである。つまりはそれが記事筆者(大上朝美氏)の、装丁というジャンルに対する見識の全てなのである。記事全体が本の装丁をめぐる内容であるのにも関わらず、不用意な一文であると感じた。ベテランの文芸記者らしいけれど、どうしたものか。造本装丁コンクールで賞を受けたこともある、という一文はまさかウィキペディアで調べたわけでもあるまいが。何にしろ、イロイロと物足りない記事であった。

■この問題の一因として、恐らく平出先生は、ご自身からは「装丁家」を自称してはおられないのだろうと思う。昨日書いた「肩書き自称問題」にも通じるハナシで、先生はご自身の肩書きとして「装丁家」を自称することには、多少の照れを抱いて遠慮なさっているのではないか、と(勝手に)思う。だが大学時代、先生に装丁のお話を伺った際、とても嬉しそうにイロイロな話を聞かせて下さった。あれは雨が降っていたある一月の寒い日の午後遅くのことで、場所は人気のない食堂であった。多分先生は私のことなど覚えてはおられまいが、私は覚えている。いつまでだって覚えているだろう。

(※装丁、という表記は記事中のもので統一した)

■近頃、寒さのために唇が青くなっている人、というのをあまり見かけなくなったような気がする。気がするだけで、実際にはいるのだろう。でも、少し前までは、もっと周りに沢山いたように思うのだ。あまりの青さに、その唇の印象だけが残っている人さえいる。まぁつまり、顔は覚えていないという話なのだけれど。唇の青白さだけが鮮明に思い出される人。それらの人々はどういうわけか、全て女性なのである。

小野寺邦彦

#073 自称アイドル 2011.02.20.SUN


■月曜はバレンタイン・デーだったとかで、さるお菓子会社のキャンペーンに「応募当選者にアイドルから本命チョコが届く」とあったが、それは違うだろう。抽選で相手を決めるのだから、むしろこれ以上はない鉄壁の「義理」だと云うべきだ。義理チョコの最高峰、とかそういうコピーなら私も欲しい。姉妹品の人情チョコは人肌でしっとりと溶けている。

■それにしても何だか「アイドル」が流行っているのかも知れない。単体ではなく集団、グループ単位での「アイドル」である。ワンアンドオンリーの絶対的ヒロインではなく、豊富に用意された粒揃いの中から好きなのを選んで、という相対的なヒロインという形は時代に合っているのだろう。民主的である。アイドルが民主的ってのも(語彙的に)どうなんだと思うが、それ自体に別に意見は無いのである。結構なことなのである。あるのだが、電車の吊り広告や雑誌の広告、ビルの看板などに無尽に踊る「アイドルグループ」や「アイドル集団」などというコトバに、けれど私は全く興味が沸かないのだった。しかしである。仮にそれを「アイドル軍団」としてみればどうか。俄然興味が沸いてきた。だって軍団だ。軍だぜ、軍。如何わしきは軍の響きだ。何だかプロレス的なニュアンスを感じる、アイドル軍団。クセ者揃いだ、アイドル軍団。悪魔超人と戦ったのはアイドル超人軍だったし。他団体との抗争や遺恨、メンバーの造反や内通、移籍などでファンは盛り上がる。そして最終戦は東京ドームで決戦だ!ダフ屋もホクホクである。

■これも何度か書いたり言ったりしてきたのだけど、たかが芝居やる集まりを「劇団」というのもなんかスゴイ。団かぁ。じゃあ俺は団長か。書記とか補佐官とかいるのか。いっそそれこそ「演劇軍団」ではどうか。何かヨソの芝居に殴りこんでいって劇場の領土制圧とかしそうである。他の劇団を力で屈服させ、吸収・支配するファッショな冬の時代が訪れるのだ。やがて内ゲバが起こり、演出家は罷免され、主演女優を巡る醜いいさかいから組織は瓦解してゆく。あれ、何か普通だ。日常茶飯の出来事だ、ソレは。

■「劇団」というコトバのモノモノしさと、それを名乗る際の何とも言いようの無い気恥ずかしさ。「劇団」の他に「演劇集団」とか、「なんとかユニット」とかそういったいう呼称を使っている例もまあ世には多いですけれど、同じことである。気恥ずかしい。いたたまれない。そもそもそれらの呼称は一体なにかと言えば、そう、名刺の肩書きのようなモノですね。ただ「架空畳」とか言ってみたところで「何ですか、それは?」と聞かれること120パーセント必至なので「まあ、劇団です。芝居をやります」と言わねばならない、この一連の遣り取りを省略するために予め名乗っておくわけです。でもねえ。実際に「劇団」とかいうのは本当、気恥ずかしい。それは何でかというと、その肩書きは所詮「自称」であるからです。

■例えば「西部ライオンズ」や「鹿島アントラーズ」を「球団・西部ライオンズ」「球団・鹿島アントラーズ」とかいいますか。言わないでしょう。それはもう、ライオンズは野球チームだし、アントラーズはサッカーチームだし、ということは当然の事実として世間的に認知されている、と。まあそういうことになっているからである。つまり「劇団」とか「演劇集団」などの肩書きや説明が名前の頭に必要だということは、それだけ認知されていない・マイナーな存在だということの証なワケで、もっと言えばアマチュア、シロートなのである。その、「認知されていないので自称しなくてならない」というところに気恥ずかしさの正体がある。

■そもそも小劇場で芝居なんぞやっていて、一体どこからプロでどこまでアマチュアなのかというのは極めて怪しげで、強いて言えば粗方はアマチュアなのである。インディペンデントから始まって、ごく一部の人がいつの間にか何とな~くプロになる。とは言え実態としてはまあほとんどの人間はアマチュアだ。そこで肩書きは必然的に自称されることになる。自称・劇作家。自称・演出家。自称・俳優、女優といった人々が日々大量に生産されてゆく。或いはアーティスト、ハイパーメディアクリエイターとかそういうのと大差ない(いや、その肩書きの人は立派なプロフェッショナルなのですけども)。まあ何と名乗っても自由だし言った者勝ちなのだけど、例えば1,2回劇場借りて芝居やったくらいで「劇作家」や「演出家」、「俳優」を名乗るニンゲンというのが案外いたりして、その場から逃げ出したくなったこと一度や二度ではないのだ。

■何にしても肩書きを自称する、という行為は気恥ずかしいモノです。もうちょっとサラリとそれを伝えることは出来まいか?会社の社名の前に(株)とか(有)とか付いているように、(劇)架空畳とか、そういうのはどうか。そういえば昔(鳥のマーク)というのがあったけど(よく分からない人はググってみて下さい)。

■とか何とかグチャグチャ言っていると、そこまで他人は考えて聞いてないよ、自意識過剰だよ、とまあそんなことを言われたりもするが、過剰な自意識を持ち合わせていない人間が芝居なんぞ作るか。それと誤解してはならないのだが、私はその「恥ずかしさ」を決して悪いものだとは思わない。むしろモノを作る人間は常に「恥ずかしく」あるべきだ、とすら考える。どこまでも「自称」せざるを得ない恥ずかしさ、いたたまれなさ。私はそれを忘たくはない。恥をかきながら続けている。作品を作っているなどと言って晴れがましいような顔は決してすまいと思う。好きでやっていることだ。「作品に対する使命感」とか言う奴がいるが、首を絞めてやろうかと思う。フロント・チョークで。

■しかしそれにしてもバンドは不思議ですね。インディーズシーンというものの実態は小劇団と大差あるまいに、「楽団・ほにゃらら」とか言わない。そこら辺がセンスの差なのだろうな。単純に関わる人間の数の問題なのかも知れないけれど。しかしバンドマンと劇団員、その呼び名の醸し出すイメージの差。何といってもバンドマンだ。マンである。これが「楽団員」だったらどうだ。どうだと言われても困るが。少なくとももうちょっとモテてはいないハズである。楽団員。

■先週の日曜、友人の結婚式で神戸まで出かけた。朝5時に家を出て新幹線に乗り、夜行バスで帰ってくる。日帰りの強行軍だったが、楽しかった。フと夜行バスに飛び乗ってしまえばどこにだって行ける。朝には別の街にいることが出来る。その一瞬の夢想が、同じ街・同じ部屋での、何も起こらない毎日の生活を支えているのかもしれない。そう思った。

小野寺邦彦

#072 無知との遭遇 2011.02.13.SUN


■最近頭を悩ませていることは「マズい納豆のおいしさ」をどう表現したらよいのか、ということである。本当にどう言ったらいいのだ。このマズさが美味い、と感じる食べ物があるでしょう。(ないですか?)。味の好みと言ってしまえばまあそれまでなのかもしれないが、そういう次元を遥かに超えて、明らかにマズいのにウマいのだ。もっと言えば「ウマい納豆よりもマズい納豆の方がウマい」のだ。魚肉ソーセージなんかもそうである。イケメン苦手ブサイク好き、みたいなことか。違うか。

■少し前。ある人と話をしていると、「子供の発想は独創的で面白い」などと言ったので、私は「それは違う」と思った。思ったが口には出さなかったのでここに書いておく。

■殆どの場合それは大人にとって珍しいというだけで、子供の世界では常識的で凡庸な発想に過ぎないのではないか。それはあくまで「子供が言った」から面白いのであり、同じことを大人が言えばバカにされるに決まっている。つまり意見だけを純粋に取り出してみれば取るに足らないことであるのだから、一体どこに感動しているのかといえば、その無知ぶりになのである。だが子供は無知を誇っているわけではないのだから、ある意味子供を見下した考えである。子供の考えとは、やはり子供の考えに過ぎない。私には、子供の思いつきよりも、大人の考えの方が断然面白いと思うし、興味がある。

■確かに子供の発言にハッとすることはある。しかしそれは発言の打算の無さ、ウラを感じない純粋さ、すなわち彼・彼女らの「態度」に寄るものであって、意見や発想そのものにではない。「子供の発想は凄い」「常識に囚われていない」などと、コドモのつまらん戯言を徒に礼賛する風潮には辟易とする。それは未熟であるということに過ぎない。常識を知らないことと、常識を知った上でそこから離れてゆくことの、どちらが困難で、また魅力的か、指摘するまでもないことだ。いやまあ「常識に囚われない」というコトバ自体が物凄く常識的なんだけど。そんなこと言っても奴らにはチンプンカンプンなのだろうし、まあそれはいいや。

■もう一点。これは高校を卒業した辺りから何となく感じていたのだが、どうも若い人間(まあつまりコドモ)の方が頑なで、保守的になり易いように思える。一般的に、若者は失うものが何もないので、無謀だ、挑戦的だと言われるが、事実は逆なのではないか。失うものがないからこそ、何か守るものを探している。ある一つの場所に固執して「そこにいる」ことを主体的に選択しようとしている。実際には若者ほど「囚われ易い」のだ。子供ほど、意固地で頑固なものである。それは彼らが持っている世界の圧倒的な狭さに呼応している。私自身、幼い頃から自分が-意に反して-案外に保守的で頑固な性格であることを自覚していた。最近は、それを少し窮屈で退屈だと感じている。

■例えば、小劇場の界隈でうんざりする程溢れかえっている、いわゆる「若さを売りにした芝居」というやつは、今は見るのもイヤである。それはつまり私にとっては「無知で頑固で狭い芝居」であるからだ。ただ勿論、未熟な魅力、というものも世の中にはあるし、私はそれを否定するものではない。若さ以外に一つでも売りがあると言うのなら、勇んで観に行く。

■まあつまり何が言いたいかといえば、コドモよりオトナの方が断然面白い、ということだ。子供のヒトは早く大人になってどんどん面白くなって下されば結構である。

■扁桃腺が腫れてしまってあまり声が出せない。だが人に言わせれば今くらいで普通だそうだ。普段どれだけ喋っているのだろう。体調もあまりよくない気がしてくる。一日中黙っていると何だか調子が出ないのだ。喋りたい。若しくはどうせ喋れないのなら、喋ってはいけない場所に居たいと思ってしまう。映画館とか。新宿へ「冷たい熱帯魚」を観に行きたい。雪が溶けたら出掛けよう。

小野寺邦彦

#071 追記・新宿八犬伝第五巻 2011.02.05.SAT


■ボンヤリと新聞など眺めていて、何ということもないコトバについ目を奪われてしまう。それは例えばこんなコトバである。

「悪質な犯罪」

■では良質な犯罪とは一体何か。20年前に家出をした一人息子の帰りを今も待ち続けるも既に老衰し、半ば以上ボケてしまった老婆に対して見るに見かねた青年が「俺が息子だ。母さん帰ってきたよ」と嘘を言い、ヒシと抱き合って満足させてやることか。というか、それって犯罪か。同じ理由で「非人道的兵器」というのも相変わらず謎である。では人道的な兵器とは何だ。自動くすぐり装置とか、そういうものか。ちょっとイヤらしいじゃないか。それもどうなんだ。謎は深まるばかりである。

■さて以前書いた「新宿八犬伝第五巻」の感想ですが、戯曲集(新宿八犬伝・完本)を購入して、改めて第一巻から第五巻までを再読したところ、分かったことがあるので追記しておきます。ネタバレをしているので未読の方で結末をお知りになりたくない方はご遠慮下さい。

■実は芝居を観たときに、唯一得心しかねる部分があったのですね。それは物語のラストで新宿ジャンゴの正体が、第一巻の主役、フィリップ・マーロウであると明かされる場面。コレって必要だったのかなあ?と思ったのです。その設定が出てくるタイミングが物語の最後で何だか唐突だし、第一それが判明したからといって特にどうということもない。物語に影響のない設定だし伏線にもなっていないしで、何だかいかにも取って付けたような感じがして疑問だったわけです。単なるファンサービスのつもりなのかも、とも思いましたが、それにしたってピントがずれている。そこだけモヤモヤしたことを覚えています。

■ところがですね。改めて第一巻を読み直していたら、そのラストに、次のようなものがあったのですね。第一巻の「伏姫」である奥方に、マーロウが言うセリフ。

「そう、あなたは伏姫。そしてこのぼくは八房!」

■すなわち、マーロウの正体は伏姫の忠犬であり、八犬士の親でもある八房だったわけです。ハっとしましたですね。つまりマーロウ=ジャンゴであるなら、ジャンゴもまた八房なのです。であるからこそ、第五巻の最後に、盲導犬である闇だまり光を失った「伏姫」姫川マキにジャンゴが手を差し伸べて言う「今度は俺が君の犬になるから」というセリフが生きてくるし、闇だまり光が「物語からはぐれた登場人物」であることの残酷な証明にもなっている。「伏姫」姫川マキの盲導犬であるという彼のポジションは、実は初めからジャンゴ=マーロウのものであり、光はその代役に過ぎなかったというわけです。ジャンゴ=マーロウと明かすことは、新宿八犬伝という物語を構造として循環させるために必要な装置だった。迂闊なことに観劇当時は気づきませんでしたね。まあ、普通気づかないよ。

■しかしスッキリした。面白かった。新宿八犬伝(完本)、いい本です。高いけど、いい本。

■夜の深い時間に作業をしていて、イロイロと煮詰まってしまったので、フイに散歩に出かけた。凍るように寒い夜の住宅街を、背中を丸めながらアテも無く歩いた。と、あるアパートの一階の窓から、温かくも美味しい香りが漂ってきた。スープか何かを煮込んでいるらしい匂いである。明かりの付いたその窓からは、香りと一緒に楽しそうな鼻歌が聞こえてきた。女性の声であった。金曜の夜。きっと明日は休みなのだろう。誰かを迎える準備をしていたのかも知れない。少し調子を外したその鼻歌が、眠るまで耳に残っていた。

小野寺邦彦

#070 客席にて 2011.02.03.THU


■新橋にある、油とヤニでベットリと薄汚れてコ汚い居酒屋のメニューに力強い文字で「カフェ飯丼」と書き殴ってあった。アタマの沸いた妖精の書いたイタズラだと思った。

■先月から今週までに7本ほど芝居を観た。全て出演者・関係者に誘われてのものだったが面白いものは無かった。既に自分たちの掌中にあるものを繰り返して見せているだけで、挑戦的なもの、挑発的なものを一切感じなかった。あるいは過去あったものの単純なエピゴーネンであり、模倣に過ぎないものである。「それ、見たことあるよ。しかももっと面白いやつ」。感想を書けばそうなる。

■小劇場の芝居は、小さな客席に向けて行われるので、自然、規定路線で受けるモノ・過去に受けたモノを再生産しがちになる。身内受けや小ネタで客席が沸けば沸くほど一見の観客としてはシラけてしまうし、何よりそのチラチラと客席に媚を売る視線が嫌である。空振りかホームランかのフルスイングよりもコツンと狙ったヒットを生産しようという根性が下衆である。それでは劇場まで足を運ぶ甲斐が無い。その程度の「面白いもの」はテレビやネットにタダでいくらでも転がっているからだ。シロート芝居に金を払って通うのは、何かとてつもないモノ、埒外のモノを見たいと思うからだ。

■一見、挑戦的な意匠を身にまとってはいるように見せてはいるが、その実、薬籠中のものを多少アレンジしているに過ぎないというものも多い。非常に多いのだ。ハッキリ言って客を舐めているのである。馬鹿にしているのである。この程度でいいだろう、と。子供は騙せるかもしれない。しかし、私は騙されない。何より「自分たちが楽しんでいれば、観客も楽しんでくれるはず」というムードが漂ってきて辟易とする。戯言である。それは金を取ってすることではないだろう。共感を求めるばかりで知的な興奮が味わえない。知らないもの、観たことがないものが一切出てこない舞台には価値を感じないし、むしろ時間の浪費である。逆に言えば、例え全体が凡庸、あるいは破綻していたとしても、ただ一つのセリフ、ただ一つのシーン、ただ一つのギャグ、たった一人の役者に見るべきもの、見たことがないものが有れば、それだけで許せる・観てよかったと思う。その瞬間のためだけに、劇場へと足を運んでいる。

■ハッキリ言って芝居の客は甘い。他のジャンル、例えば映画や音楽や文学の客などと比べるとハッキリと甘い。それはそうだろう。知り合いや業界関係者でギッシリと埋め尽くされた客席から簡単に出てくる「良かった」「面白かった」の声。どの芝居を観にいっても、必ず数人は知った顔がいる。どこでも見かける顔がある。それが小劇場という場をつまらなくする。小さなファンを楽しませるサークルと化してゆく。一般の観客の足はますます遠のいてゆく。

■勿論、全て自分自身に跳ね返ってくることである。というより、ほとんど自分のこととして書いた。他山の石としたい。

■芝居を観た後、久しぶりに岩松と飲んでダラダラと喋った。

■帰りの電車の中で高校生のカップルを見かけた。肩まで伸びた長髪の男の子と、ベリーショートの女の子だった。男の子は身長180センチくらい、女の子は150センチくらいで対照的なルックスだったが、二人とも真っ直ぐで美しい鼻をしていた。一瞬、兄妹なのかもしれないと思った。ぎゅっと寄り添うように立っていたが、手は握っていなかった。

小野寺邦彦